多発性硬化症、神経性難病患者会『大阪MS/NMOコムラード』

・大阪で多発性硬化症をメインとして神経性難病の患者団体の運営をやっております。
・年4回、多彩なゲストをお呼びして医療イベント等を開催しておりまして、自らは、根っからの音楽好きで、弾き語りもしております。
・『生活』全般の情報の提供にも力を注いでおります。

一年は『ちんつき』で終わっていました。

昔話なんですが、、


私が高校1年まで 大阪の十三というところで家業として『餅屋』をやっていました。
まぁまぁ大きな家で、一階の半分ぐらいが製造工場になっていまして、毎朝 ドーンドーンという餅つきの音が聞こえていました。『餅屋』といっても、それだけでご飯が食べれる訳も無く、饅頭みたいな物も作っていましたね。学校から帰宅すると 普通に手伝っていました、、高校に入ると従業員も辞めて、ホントに家族だけになり、、昔はそんな零細商店が多かったです。帰宅後、自由にやってる友達がうらやましかった記憶があります。


この時期になると ちんつき と言って、正月用の餅を作り始めるんですが、
私はこの名前の意味が分からず、賃ツキ なんですね、、昔 もち米を持ち込んでお金をはらい 餅をついてもらう、、ここからきているようです。
今から考えると、ど素人の(元は会計畑)父が、思い切った事をやったもんだと思います、、若い頃は自信家だったようです、、経営が悪くなると 見る影も無かったです(笑)。しかし、凄いな~と思った事がありました。


ご存知の方も居られると思いますが、拘置所近辺にある 差し入れ屋さん。
大阪拘置所にも2軒ほどありまして、そこへ 正月用に何個でしたか、、とにかく、
31日の昼から大福餅を作り始め、午後8時位に配達に行くのですから、凄い数だったと思います。新年に拘置所側が 入っている連中に紅白大福を出すのですが、
それを経由さすのが差し入れ屋になっていて、そこへ納めるわけです。


こんなところ、、どうして 開拓したのか?すごいな~、やり手やな~と思っていました。聞いたことがありました、答えは 飛び込み営業だったそうです。
自転車で凄い距離を走り 営業をしてたとの事、、いや~ 若くて燃えていた頃でしょうね。その頃は 儲けたようですが、時代について行けずに、終わってしまいましたが、
、でも、それを言っている父が自慢げで、、しかし 大きく見えましたね~。
5年前に逝きましたが。


こんな格好の良い機械ではなくて、丸見えで モターも別にあり、ベルトによって駆動させ 杵を上に上げ、自重で落とす感じでした。臼も杵も石で、、最初は怖かった。
そうそう 力餅食堂の厨房をチラッと見た時、うちと同じような機械がありました。


毎年 思い出します。母が逝く10年まで毎年 自動餅つき機になりましたが、
私達兄弟、近い親戚の分を一日かけて 二人で作ってくれていまいした。


その時は多分、、、昔を思い出しながら 二人だけの世界に入っていたんでしょう。
皆さん 今日はクリスマス、、良い一日を!