多発性硬化症、神経性難病患者会『大阪MS/NMOコムラード』

・大阪で多発性硬化症をメインとして神経性難病の患者団体の運営をやっております。
・年4回、多彩なゲストをお呼びして医療イベント等を開催しておりまして、自らは、根っからの音楽好きで、弾き語りもしております。
・『生活』全般の情報の提供にも力を注いでおります。

『豆腐屋の四季』というテレビドラマ

令和になって最初のアップ、、とりあえず 令和とはあまり関係ないですが・・


1969~1970 約半年間 大阪朝日放送で放映されたドラマ。
当時も『若者たち』というドラマと同じ感じがしていたが、
最近ちょっと気になりだして この作者 松下竜一氏をウィキで調べると、、
なるほどと思った。


当時 私は中学三年だったと思う。
緒形拳、藤原釜足、林隆三、他の出演、、父役が藤原釜足、緒形拳が長男で弟が林隆三。
豆腐屋なのに、豆腐つくりを失敗したりして それを投げ捨てていた。
とにかく、何か どんよりとしたドラマだった。


置いといて、、私の父、修行も行かず、独学で饅頭屋を始めて まぁ それなりに頑張っていたとは思うが、思うように作れずに たまに床に投げつけていた。そういう家業を
手伝っていたが、その時代、それが普通であった。しかし、「これ 作れ!」と指示されるだけ、、作り方は教えてくれない。多分、自分でも自信が無かったので教えられなかった?かもしれないが、、父の生前時にはこの事 聞く事も 頭に無かった。


そんな時だったので、このドラマがやたら うちの家とオーバーラップして、色々考えてながら見ていた。その中で父役の藤原釜足が息子に向かって「生活力の無い父は、父ではないのか!?」と言うシーンがあって、ガ~ンときた。
実は そんな事を考えていたのが私だった。普通であったとは言え「なんで子供にここまでやらすのか!?もっと何とかして生活する方法を考えろ!」とか、、勿論、母も父以上に早く起きて仕事や家事をやっていた、、なんせ、4人兄弟なので大変だったと思う。
「こんな父にはオレは絶対にならんわ!」怖くて反発はしなかったが、心の中では
軽蔑まではいかないが、ドラマの中で藤原釜足が言ったような事、、その通りや!
そんな思いがあった。


その後、一家離散、様々な事があり 最終的には父母の面倒をみる事になり、約10年間は二人の介護で追われる事になったのだが、今になると そんな父が可哀想にも思える。
、、息子にそんな事を思われていたって、、。


彼が生きた 大正、昭和、平成、この時代が終わり令和がスタートした。
逝く 1年ぐらい前に「死んだら どこへいくんやろな~?」と聞いてきたので、
「そうやな~ 多分 親父がさきやろから 向こうがどんなところか絶対に知らせてよ!、もしも 自分が先になったら知らせるから(笑)」父、、「分かった!絶対に知らせるからな!」


5年間待ってるが連絡が無いので、、又 何か失敗でもして 床にたたきつけるのが忙がしいのか(笑)?とにかく、


令和になったぞ!親父、おふくろ!